【サ道】サウナに行くようになって気づいたこと

【サ道】サウナに行くようになって気づいたこと
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■私も整ってみたくて

ネットに生息されている諸氏は既にご存知だと思うが、最近サウナが流行っている。

私は今年の1月に「ねとらぼん」で知った。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1901/16/news115.html

 

タナカカツキさんの漫画も昨今のブームの火付け役のようだ。

(中古の値段がすごいことになってる)

サウナとセットで語られるのが「整う」という感覚である。
サウナ→水風呂→休憩を繰り返すことで、「ディープリラックス」「多幸感」「サウナトランス」とかいうようなすごい気持ちいい感覚が訪れるらしい。
ねとらぼんしかり、マンガ サ道しかり、サウナに行ったという人の話を聞くと、皆「整った」と言っている。

そんなにいいなら、自分も体験したい!と思い、私もサウナに行きはじめのだった。

■ととのう?

結果から言うと、何回かサウナに行ったけれど、私は、未だに整ってない。と思う。
整う感覚が、正直よくわからないのだ。
整えてないと思いつつ、実はすでに体験できていたのかもしれないけど、そうじゃない気がしている。

しかし、何度か行くうちに、感覚の変化は感じられている。
最初は辛くて全然入っていられなかった水風呂に、割といい感じに入っていられるようになった。

■気づき

そして今日もサウナに行ってたのだが、サウナに入りながら私は気づいた。

整うとは、人がつけた感覚の言葉であり、それにとらわれていたなと。

サウナいったら整わなければいけないわけではないのだ。

■大切なのは整うことではなく、感覚に向き合うこと

サウナに入りながら思い出した本がある。(サウナに全然関係ないけど)
僧侶・小池龍之介さんの著書『考えない練習』である。

特に現代人は考えることに意識が向き過ぎて、五感で感じることがおざなりになっている。
感覚に能動的になることで、心が充足する。
というような内容を、仏教の言葉を交えつつとてもわかりやすく綴られている名著である。

サウナに行くことは、まさに能動的に自分の感覚に向き合うことに等しいのだ。
ある種マインドフルネスとかも、近しい行為ではないかと考えている。
(行為としてのサウナ道とは、なるほどたしかに道を求めるがごとく、よいネーミングだ)

だから、感覚に向き合うことこそが大切なのであって、
整ったか整ってないか、これは整ったと言えるのか、とか考えることはどうでもいいのだ。

自分にできることは、自分の身体に意識を呼び戻し、都度どう感じているかを意識すること。
続けていくとそのうち感覚の変化が訪れ、今までできなかったことができたり、今まで無かった感覚を得られたりする。

私の場合は、そういうふうに自分がちょっとずつ変化していく、拡張されていくようなことが快だなと思うのだ。

■まとめ

自分のできることや自分の感覚に向き合って、続けていくことの大切さを、サウナは思い出させてくれた。

そういった意味では、自分自身を「整わせている」のかもしれない。

これからも私なりのサ道を歩んでいくのだ。

(とはいえ、いつか「整う」境地に至ったとしたら、自分もドヤ顔で「整ったぜ!」って言いまくると思うけれど)

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