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先日、録画してた映画『ステキな金縛り』を観ました。
三谷幸喜監督作品なので期待していましたが、期待以上におもしろかったです。
あまりによかったので分析してみたところ、いろいろ発見があって三谷さんすげえ!ってなったので、まとめてみました。
主に作品の構造について語ります。
(あらすじ)
失敗が続いて後がない弁護士のエミ(深津絵里)は、ある殺人事件を担当することになる。
被告人は犯行が行われたときに自分は金縛りにあっていたので、完ぺきなアリバイがあると自らの身の潔白を主張。
エミはそのアリバイを実証するため、被告人の上に一晩中のしかかっていた幽霊の落ち武者、六兵衛(西田敏行)を証人として法廷に召喚させるが……。
(Yahoo!映画より)
(※注 以下ネタバレあり)
もくじ
○速水の役割
・テーマを象徴
・キーアイテムを導く
・切り札を導く
○主人公の成長とその表現
・成長の表現
・音楽の選定理由
○キャラの魅力
・構成と本敵キャラ設定の関係
・流すところと凝縮されたところ
○まとめ
速水なしではこの映画は語れない
テーマは 「生きることは食べること」
幽霊である六兵衛は、食べたくても食べることができません。
逆に、他の(生きている)登場キャラは、随所で食べたり飲んだりしています。
特に速水は食べることに貪欲で、登場するたびに甘いものやカロリーの高そうなものを食べていました。
後半彼は死んでしまうのですが、「もう一度、天一のラーメン食いたかったな……」と惜しむセリフは、テーマを端的に表した言葉だと言えます。
※天一のラーメン……天下一品というラーメン屋。スープのこってりが半端ない。
また、前半で六兵衛がエミと訪れたファミレスで、大量のごちそうを前にして食べることができないのだと悔しそうにエミに語るエピソードも、「食べたいけど食べられない→生きたいけど生きられない」という悔しさであり、「美味しいものが食べられる幸せ→生きることのできる幸せ」、ということにつながってくると思います。
というわけでこの作品では、「食べ物」が重要なアイテムとして扱われることになるのです。
笛ラムネに至る道筋
幽霊の六兵衛が、いかにして裁判で証言するのか。
それを可能にしたアイテムが、「笛ラムネ」でした。
基本的にこの世のものに干渉することができない幽霊ですが、一つだけできることがありました。
それは、「息を吹きかけること」です。
六兵衛は裁判に臨むまでに、クリームソーダをぶくぶくさせたり、花瓶の花弁を揺らしたり、さらには見えない人に息を吹きかけ、その存在を悟らせることまでやっています。
シーンにおいてほんのちょっとの行為ですが、繰り返し挿入することで、視聴者にその能力を印象付けることができます。
その能力に対して「笛ラムネ」を結び付けることができたのは、速水のおかげです。
なぜ速水は食いしん坊キャラだったのか。
その理由の一つが、笛ラムネを自然に登場させるため、であります。
そもそも、今どき笛ラムネなんて普通に出てこないわけです。
例えば事前に笛ラムネだけ、何かしら理由をつけて登場させたとしても、明らかに不自然になってしまうと思うのです。
そこで利用されるのが、速水が食いしん坊であるというキャラ設定です。
彼は、ピザやらゴディバのチョコやら、とてもおいしそうに、大事そうに食べていました。
彼にとって食べること・食べ物はとても大切なのです。
割と最初のほうで笛ラムネを食べるシーンがあるのですが、彼はお菓子をきちんとしまってある引き出しから取り出して食べていました。
彼の几帳面な性格とあわせて、食べ物に対する愛が表現されているのです。
それによって、笛ラムネの存在が、お菓子の一つとして、視聴者は認識します。
つまり笛ラムネが出てきたとしてなんら不自然ではないのです。
死に至る道筋とその意味
そんな速水ですが、物語後半でぽっくり死んでしまいます。
ちょっとネタっぽい感じですが、決してそんなことはありません。
これはかなり計算された死でした。
三谷さんは完全に狙って速水を殺してます。
その点について語ります。
この物語の事件の中心は、裁判です。
裁判において決定的な証言を得ることが、事件解決の切り札になります。
この裁判において、最も決定的な証言は何かといえば、「殺された被害者自身の証言」です。
この証言を得るためには、被害者である鈴子(竹内結子)を連れてこなければいけません。
エミは六兵衛に頼ってその彼女を連れてこようとしましたが、できませんでした。
それどころか、向こうの世界の公安局公安科の段田(小日向文世)によって、六兵衛は連れて行かれることになります。
頼る人物を失ったエミですが、自分の力で事件の真相に気付きます。
真犯人は死んだと思われてた鈴子で、本当の被害者は、鈴子の双子の姉・風子(竹内結子・二役)だったのです。
なので、風子を向こうの世界から連れてくること、これが切り札を手に入れる方法になります。
しかし、このとき既に六兵衛はいません。
代わりに彼女が利用したのが、段田です。
段田に風子を連れてきてもらおうとしたのです。
そのためには、段田にメッセージを伝えなければいけません。
それを可能にしたのが、速水の死であります。
エミは死にかけの彼に、「これを段田さんに渡してください!」とメッセージを書いたメモを託します。
あっさり死んでしまった速水ですが、直後に幽霊となってエミの前に現れます。
段田を連れてきたのです。
エミは段田と取引をします。
そうして物語はクライマックスへ向かっていきます。
まとめると、
・切り札である証人が必要
↓
・段田に依頼したい
↓
・段田に連絡するためには死ぬ人が必要
↓
・速水の死
となるわけで、速水は切り札の導線として死んだのです。
食いしん坊キャラである彼は、登場する度に何かしら食べていましたが、途中から薬を飲むようになっており、死ぬ前にはついに入院していました。
物語の進行と共に、彼の病状は悪化していたのです。
その死が不自然にならないように、そしてあのタイミングで死ぬように、巧妙に計算されて描かれていたのです。
速水は、死ぬべくして死んだのです。
さらに言うと、死因がよくできています。
エミらとの会話から速水は、「甘いものは医者に控えるように言われていた」「持病が悪化して死にかけた」という情報があったので、糖質の摂り過ぎが持病悪化の原因になってると考えられます。
つまり、原因不明の火事だとか、突然の事故だとか、誰かに殺されるとか、そんなような死ではなく、「食べること・食べ物」というテーマに結びついているものが死の原因になっているわけです。
以上より、速水によってテーマが印象付けられ、キーアイテムが導かれ、切り札への導線になっていることから、この作品において彼は重要な存在であったと言えます。
主人公の成長表現
なぜ途中で六兵衛がいなくなったのか。
それは、主人公の成長のために必要な出来事でした。
そもそも六兵衛にお願いして、あっさり死んだ被害者を呼んできてもらえたら、なんにも苦労はありません。
頼れる“援助者”がいなくなって、エミは改めて事件に向き合います。
その結果、真相をつかんだ彼女は、今度は段田にお願いして被害者を呼んでもらいます。
六兵衛のときとやってることは同じですが、最初はなんとかしてもらおうという感じだったのに対し、2回目は手段としての明確な意思のもと、行為が行われています。
また、最初はへっぽこだった裁判も、最後は一人で見事無罪を勝ち取ることに成功しています。
こうした変化から、主人公は成長によって事件を解決したのだと言えます。
そしてラストの、夜の法廷の場面です。
一人感慨にふけているエミの元に、六兵衛が彼女の父親(草彅剛)を連れて現れます。
しかし彼女は気付きません。
幽霊が見えなくなっていたのです。
見えていたものが見えなくなったという変化で、成長した主人公が表現されているのです。
しかも、あんなに会いたかった父親なのに、成長してしまったがために見えないという、なんとニクイ演出なのでしょうか。
そんな親子をつなぐものが、思い出の音楽であり、ハーモニカです。
笛ラムネの代わりとして登場していたハーモニカは、メロディを奏でることができ、吹き方によって感情さえも伝えることができます。
自分のことが見えない娘に対して、幽霊の父は、法廷の隅によせられていたハーモニカで、思い出のメロディを吹きます。
それによってエミは父親の存在に気付きます。
そして、裁判と同じようにハーモニカを介して問答をするのですが、エミの「お父さん?」という問いに対して、父が思い切り吹いたハーモニカの音が、静まりかえった法廷に大きく響き渡ります。
父親の溢れんばかりのいろんな感情が変換されているのがわかるから、ただの音なのに、ものすごく心が打たれるのです。
だから泣けるのです。
音楽の選定理由
親子をつなぐものが、音楽であった理由ですが、
幽霊ができることは息を吹きかけること→ハーモニカが使える→音楽!
となっているのではないでしょうか。
それで音楽を持ってくればなんでもいいかと言えばそうではありません。
段田の登場によって、その曲が映画音楽だったことがわかります。
その作品は、フランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』という1939年公開のアメリカ映画です。
不勉強にも僕は見たことがなかったので調べてみました。
「病死した上院議員の後任として指名されたボーイスカウトの少年団長・スミスは、自分を指名した有力議員たちの不正に気付く。
政界の陰謀を知ってしまった新人議員の、不正を暴く勇気ある行動を描いた社会派ドラマ」
(アマゾン商品説明より スミス都へ行く [Blu-ray] )
エミの物語と似通っているのがわかります。
また、仏壇にDVDが飾られるくらい、父の好きだった映画でもあります。
他の作品を持ってくることで、それがわかる人にとっては、一気に背景が深くなります。
わからないにしても、映画好きの段田のセリフによって、父親がどんな人物だったかということは表現されています。
好きなものを見せることは、その人の人となりが垣間見える(自己)表現となるのです。
というわけで、思い出の音楽は、きちんとキャラ設定に根差した選定理由があったということです。
キャラ設定の妙
三谷映画といえば、登場キャラクターの魅力です。
どの人物も、見た瞬間に、なんかキャラが立ってるんですよね。
ほんとうまいなあといつも感心してしまいます。
それを可能にしている要素の一つが、キャスティングとキャラの絶妙な組み合わせだと思います。
あの役者さんがこんな役をやるの!?という意外性であり、それでいてしっくりくるというハマり具合。
今回で言えば、エミ役の深津絵里のコメディエンヌっぷりとかですね、六兵衛役の西田敏行のインパクトとかですね、もう相変わらずどの役者の使い方も上手いんですよね。
もちろん、ただ役者がいいだけではなくて、演出が効いているのだと思います。
キャラを立たせるには、見た目だけではなくて、その人物がどう考えてどうしゃべってどう行動していくかというのも大事だし、その人物が身につけているものや持ち物がどんなもの、どんなふうであるか、というのも、重要な要素になってきます。
この映画では、法廷ではライバルである検事・小佐野(中井貴一)が、個人的にすごく良いキャラしてたなあと思いました。
ほんとは幽霊見えてるのに認めない!と言い張るとことか、
亡き愛犬と再会してはしゃぎまわるとことか(ここんとこすごく泣ける!)、
裁判前に六兵衛を連れて行こうとする段田を追い返すとことか(敵だった人が味方してくれるっていうのはベタだけどめっちゃツボ!)、
散々「異議あり」と言ってたけれど、最後は「異議なし!」と言うとことか、
エミと別れるときに「裁判は勝ち負けじゃないから」と3、4回言うとことかですね!
すごく魅力的でした!
物語の構造と本敵のキャラ設定
さて、キャラ立ちで言えば、物語の本敵であった、鈴子と、彼女の愛人であり殺された風子の夫である日野(山本耕史)です。
やたら芝居がかった演技による胡散臭さで演出された、ベッタベタな悪役・真犯人役でした。
このキャラ設定にも、きちんと理由があったのです。
それについて語るために、この物語の構成について説明します。
物語上、鈴子らは本敵にあたります。
そして構成上、本敵の挿入ポイントというものがあります。
1.まずオープニングです。
風子が、鈴子と夫・日野の逢引き現場を訪れます。
そこで鈴子と風子がもみ合った末、風子は死んでしまいます。
これが全ての事件の始まりです。
2.次の挿入ポイントは、映画の真ん中、ミッドポイントです。
幽霊裁判が取り上げられた新聞記事を、鈴子らは見ていました。
それによって、幽霊をなんとかしようと行動を始めます。
本敵のストーリーラインが主人公のストーリーラインへ舵を切り始めたのです。
4.クライマックス前、本敵の存在に気付いた主人公は、一度鈴子らにコンタクトを取ります。
誰が見てもあやしい様子の二人に、エミはこいつらが犯人だと確信します。
5.そうしてクライマックスです。
初めて裁判に現れることになった鈴子ら。
そこで、自分を殺したのはこいつだと被害者自らが名指しするという、裁判ものにおいて究極の切り札でもって、本敵の悪事は暴かれてしまったのです。
主人公のストーリーラインで言うと、本敵が怪しいとにらんで行動を始めるのは、六兵衛がいなくなってからです。
分量で言うと、全体の3分の2が過ぎたあたりです。
残りの3分の1の時間内で、本敵の罪を暴かないといけないわけです。
だからこそ、本敵はベタベタな真犯人キャラでなければいけなかったのです。
そのおかげで余計な説明をする手間が省けて、話を早く進めることができたのです。
本敵をわからなくしてフーダニット的な話にしちゃうのは、やればできたかもしれないけれど、それは違うのです。
この映画はどういうお話でどこに重点をおくべきか、逆にどこは流すべきか、きちんと考えられた上での演出だったのです。
流すと言えば、エミが六兵衛をうちに連れて帰ってから、裁判に臨むまでの細かいエピソードも、流してました。
ミュージカル調のシーンで、一曲歌っている間に、押さえておかなければいけないエピソードが、ダイジェストでまとめられていました。
(六兵衛と被告が再会したり、街で幽霊が見える人に驚かれたり、証人として六兵衛の写真がOKとなったり)
必要なんだけど他と比べると重要度が低い、というようなことも、こういうふうにダイジェストでちょろっと挟んであげるだけで、ちゃんとお話はつながっていくのだなとわかりました。
また、流すではなく、凝縮の観点で言えば、主人公が登場する冒頭のシーンの情報密度が半端ないです。
寝坊した主人公があわてて裁判所に向かって、ぐだぐだな裁判をやったのち、最後のチャンスと事件を振られる、という冒頭の10数分の流れの中で、いろんなことが詰め込まれていました。
行動やセリフ、しぐさから、主人公の性格や仕事や家庭環境がわかるし、仏壇や周囲との会話から父親のこともわかるし、ダメダメな主人公が物語の“事件”に取り組まなければいけない状況もすんなり入ってきます。
さらには、エミの同居人がシナモンロールを作っていたり、父の仏壇には映画のDVDが供えられてたり、裁判所に向かう途中でエミがトラックに轢かれかけたり、さらにはBGMが思い出の音楽をアレンジしたやつだったりと、すごくさりげなく伏線も張られているわけです。
素晴らしいのは、これらのことが、一切の説明なしに、自然と伝えられていた、ということなのです!
まとめとして
細部がテーマに結びついていて、設定に無駄がなくて、要素をしっかりと使い倒していて、きちんと構成が練られている、よくできた作品でした。
しかも余計な説明がなく、すんなりわかりやすく伝わりました。
本当に勉強になりました!
他の三谷作品も分析してみようかなと思います。