監督 小林正樹
脚本 橋本忍
原作 滝口康彦『異聞浪人記』(1958年)
出演者 仲代達矢
出演者 石浜朗
出演者 岩下志麻
出演者 丹波哲郎
出演者 三國連太郎
音楽 武満徹
配給 松竹
上映時間 133分
分析内容
・どういう映画だったか、内容や構成について把握すること
・おもしろいと思ったところは、具体的にどう表現されていたか言語化すること
あと、普通に感想なぞ。
※以下ネタバレ注意
映画を3行でまとめると
井伊家に遺恨を持つ浪人・津雲半四郎が切腹する前に身の上話を語る。
以前、井伊家で切腹した千々岩求女との関係性や、彼にあったやむにやまれぬ事情を語り、さらに彼を死に追いやった3人の侍に復讐を果たしていたことを明かす。
家老の斎藤勘解由は、家臣総出で半四郎を討ち取らせ、公儀には切腹したことにし、他は何事もなかったかのように処理したおかげで、井伊家の評価はさらに上がったのだった。
構造的な
初めて観たときは、白黒時代劇なので、ちゃんと観なきゃ理解できないかもと身構えていたのだが、思いのほかわかりやすく、そしておもしろかった。
映画は、実はこうでした、という語りがメインである。
物語が進むにつれて真実が明らかになっていくので、最後まで引き込まれた。
今回分析にあたり改めて観てみたのだが、映画全体として、これは勘解由が書いた井伊家覚書に基づくエピソードだったのだなと。
だから、半四郎がお話の主役のように見えるのだが、構造としての主人公は斎藤勘解由ではないかと考えた。
映画のミッドポイントを、半四郎の回想で語られる、切腹した求女が井伊家の3侍によって返されたところとみた。(井伊家の情報を半四郎が得る)
これ以降、半四郎は井伊家に対して遺恨を持つことになる。
つまり、半四郎のストーリーラインのベクトルは、勘解由のストーリラインに向かうことになる。
表現(シャレード)的な
所詮武士の面目とは上辺を飾るものと言う半四郎と、井伊家は上辺だけを飾るものではないとして対立する勘解由であるが、結局は思い切り体裁整えてんじゃんっていう構図。
そういうのが、血で汚された井の字の意匠の壁や、争った跡の残る庭、無残に投げ捨てられた赤備の鎧が、最後にはきれいに何事もなかったかのように整えられる、というかたちで表現されている。
切腹たかりを、やってはいけないと言っていた求女が、追いつめられた末にやってしまったというところ。
なんとなくやる、ではなく、だめだと知りながら選択をしてしまう、行為であったり、やらなくて済んだときの状況と、やらなければならなくなったときの状況とのギャップ。
求女が自分の刀は既に売り払っていたことを知った半四郎は、自分は金目のものは売り払ってしまったと言いつつ、刀だけは手放すことをしなかったエピソードで、武士の面目とはなんなのか、そんなものは何の役にも立たない、それよりも大事なものがあるだろうと強く思ったことが表現されている。
そのことが、最後に井伊の鎧を投げ捨てることにもつながっている。
しかし、大立ち回りまでして、荒らされた井伊の城内も、すぐに何事もなかったかのように整えられてしまう。
半四郎の思いは、その武士の建前に飲みこまれてしまったのである。
鎧は見ていた
映画の構成として、勘解由の覚書で挟まれていることから、歴史の記録として半四郎の思いはなかったことにされていることがわかる。
しかし、その覚書のシーンは、井伊の鎧の映像で挟まれている。
この鎧は、勘解由が最も大事にした武士の面目ってやつの象徴であるけれども、この鎧があることで、それに翻弄されたり抗ったりした求女や半四郎の思いも、確かにあった、それこそ「鎧は見ていた」とも言えるのではないかと感じた。
ほか、感想とか
それにしても、最初のほうの、求女が竹光で無理やり切腹するあたりは、特に衝撃的で、観ながらこっちも身もだえてしまった。
ちなみに、『切腹』のリメイク(というか同じ原作を再映画化)で『一命』という映画があるそうだ。(三池崇史監督で2011年の作品)
予告編をちょっと見たのだが、うーんなんか違うぞという印象。
でも、あえて見比べてみるのも一興かと。